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デニムを語る上で切っても切り離せない天然繊維である「綿(コットン)」はインドがその発展に寄与している。豊富な水資源と十分な日照が綿化の栽培条件である。綿花は約4000年以上前からインド亜大陸で栽培され衣料として役立っていた。その後ユーラシア大陸全体に広がっていくが、生育地を選ぶ性質から西ヨーロッパ方面での発達はさほどのことがなかったといえる。
15世紀スペイン、ポルトガルによる航海術の躍進、そして18世紀の産業革命による紡績機、織機の発明や改良は、豊かさを望み始めたヨーロッパ人達の衣料生活に重大なインパクトを与え、大量生産の衣料原料としての綿(コットン)の発展が始まった。特にイギリスはインドやエジプトをフランスは北アフリカ方面を植民地としていた背景から、綿花を現地から持ち帰り、自国で紡績、千色を行うという工から織物産業をスタートさせている。
そのような中で、デニムの源流は地中海地域で発展したいきさつがある。フランスの南部は地中海性気候で温暖であり、当時綿花などの部分的栽培も行われていたし、自国内や近隣の地域への綿製品の交易も盛んに行った。マルセイユ港に近いニーム地方がちょうど日本の瀬戸内地区のような気候や立地条件のもと、綿生産地として力を増した。「セルジュ・ド・ニーム」(ニーム産のサージ(綾織物))という言葉が現在の「デニム」の語源と言われている。
大量生産された綿織物は、薄手のものは衣料品として、厚手のものは袋やテント、さらには頑丈さから帆船のセールなどに幅広く使用された。

前述のようにインド、エジプトあたりが綿花の栽培として優位な時代が長く続いたが、特に新天地アメリカもまた、綿花栽培に適した気候風土であることに気付くのに時間はかからなかった。特に18世紀前半、南部に「コットンフィールド」が開墾され、アフリカから連れてきた奴隷を使役して行う綿花栽培が、一大ビッグビジネスとなってアメリカ大陸の繊維需要の増加を支えた。
当初は技術力不足から綿織物はヨーロッパからの輸入に頼る部分も多かった。綿の頑丈な綾組織織物の輸入品種、そのひとつがジーンズに使われることになる。その生地はフランス語の「ドラ・ド・ジェーン」つまりジェーンの敷布と呼ばれているものだった。ジェーンとはイタリアの港町ジェノバのこと。「ジェーン」はやがてなまった発音となり「ジェノイーズ」、やがて「ジーンズ」に変化した。
さらにジーンズはインディゴ染料との出会いを迎える。アメリカでまだ発達のスタート台についたばかりの染色産業にとって、簡単にそまり、しかも強度を増す機能もあるインディゴ染の手法は綿織物の性能と結びついて大量に生産、消費された。このこともアメリカ新大陸ならではのことであった。
西部開拓活動も終わりに近づいた1848年にカリフォルニアの山中で金鉱が発見され、それを聞きつけ世界各地からカリフォルニアへ移民が殺到。一獲千金を夢見る抗夫たちは、カリフォルニアの山地で金鉱を求めて毎日労働に耐えていたが、ズボンが耐えきれずにすぐに破れてしまうのが悩みだった。そこで登場したのがテント用のキャンバス地を使って膝がボロボロにならない「厚手の」丈夫なパンツだ。
最初に作られたのはオフホワイトの綾織で10オンスのキャンバス地だったが、より丈夫な9オンスデニム生地が使用されるようになり、さらに色を統一するためにインディゴブルーに染められた。このデニムパンツは「縮まない」「しわが寄らない」「色あせしない」という3点を保障するというユニークなものだった。
お客はこのパンツを手に入れると穿いたまますぐに水に飛び込んだという。乾くと縮んで体に完全にフィットするのが特徴で、抗夫たちは、インディゴの色が落ちて肌が真っ青になっても自分の体にぴったりのパンツが手に入るのだから少しもかまわないと感じた。
とある体の大きな「きこり」が、激しい作業のために市販のパンツではすぐにポケットがはがれてしまうという不満を持っていた。このきこりから注文を受けた仕立屋が、たまたまテーブルの上に馬具の毛布を固定するリベット(鋲)をポケットの両脇にハンマーで打ちつけた。これが労働者に人気となり、前後全てのポケットに使われるようになった。その後馬のサドルや椅子を傷つけるという理由で後ポケットのリベットの表面がカバーされ、さらにリベットは縫込みのバータック(閂止め)に改良された。
金鉱堀の抗夫のために作られた丈夫なパンツを150年後の現在も世界中で愛されるジーンズとして決定的なものにしたリベットのアイデアが抗夫でなく最初はきこりの注文で作られたズボンで初めて生かされたというのも皮肉である。

その後20世紀に入り、自動車工場を模範にし、流れ作業のシステムをジーンズ生産に取り入れたりなどして生産工程は合理化され、近代的アパレルとしての発展基礎を作った。
これまで述べてきたようにジーンズは金鉱堀をはじめとするカウボーイ、きこり等の西部の労働者の仕事着として開発され、それらの人々の需要に支えられビジネスとして成長してきた。そこで求められたのは丈夫で長持ちするという純粋に機能的な便宜だけであった。しかし1930年代末にはジーンズのイメージをカウボーイと広々とした平原に代表される大西部のイメージと一体化させようと、新たな価値の獲得を目指した。この努力は西部劇ブームを作りつつあったハリウッドの大量の西部劇映画製作によって大いに助けられた。
劇中でカウボーイたちはすべてリベットつきのジーンズをはいていたのだ。それによって大学生の中で大ブームが起き、下級生に穿く事を禁じるほどの熱狂さで、リベットつきデニムパンツへの信仰は労せずにして確立した。

1950年代に入るとブルージーンズは、またもアメリカ社会に旋風を巻き起こした。これはジーンズの価値を変え、それ以後のジーンズ市場拡大を決定的にするほどの重要な意味をもった現象であった。ヒーローの名は映画俳優のジェイムズ・ディーンとマーロン・ブランドの二人だった。ジェイムズ・ディーンは若者のヒーローとなり、その姿は彼が愛したブルージーンズとオーバーラップして社会に強い印象を与えた。マーロン・ブランドは皮のジャケットにブルージーンズでハーレー・ダビッドソンのオートバイを走らせた。彼らの姿に人々は無口で辛抱強い西部のヒーロ、カウボーイを夢見る思いだったのかもしれない。
ジーンズが急激に、しかも強力に獲得した、この反体制的なイメージは、それに共感する多くの若者の間にまでユニフォームのように、ジーンズを普及させた。しかし反面、この現象は大人たちの強い反発を招いた。要するに良い事悪い子の判断基準は、ジーンズを穿いているかどうかであるというような風潮ができあがって、学校ではジーンズの着用を禁止するという事態にまで至ってしまった。しかしジーンズの持つ丈夫さと実用性がこの問題を解決した。なんといってもジーンズは経済的だった。遊び盛りの少年たちが、というよりも親たちが、すぐに破れるのではないかと心配しないでいられるのはジーンズぐらいのものだった。こうして着用禁止は次々と解かれていった。
また、ジーンズは1964年のアメリカのベトナム戦争に対する抗議運動の学生運動家のユニフォームとなり、このころ流行ったヒッピーたちも決まってブルージーンズを穿いていた。
「綿」は古くは卑弥呼の時代にもあったと記録もあるが、普及はしなかった。栽培の技術未熟や生産に一定の規模を要することなどが原因と考えられる。しかし豊臣秀吉の時代以降の江戸時代に入ると「綿」の見直しが始まる。国内運送手段の充実により、肥料としての「鰯かす」や生産物としての「綿実」の移動を伴う商いが飛躍的に増大した。貨幣経済の発展もあり、コメよりも現金になりやすい綿花作りが各地で行われる。特に三河、尾張(愛知)、泉州(大阪)、瀬戸内地域(備中、備後)などは、気候風土に適した土地として綿作が有名となる。
現在の倉敷市児島地区では古来米作りは不得手であった。「児島のひでり、日本は豊作」というくらい雨量が少ないのだ。よって綿の栽培が強化された。やがて「綿花」そのものや「縁り糸」の出荷販売に留まらず、付加価値の多い二次加工品の生産へと移行する。「真田紐」「小倉織の帯地」「足袋」などが戦前までの産品であった。この延長線上に学生服、作業服そしてジーンズの商品開発や販売展開が生まれてきたというわけである。
「藍染」の技術は江戸時代徳島地方を中心に大きく発展した。徳島藩蜂須賀の殿様は代々「藍」の栽培とその販売を奨励して大きな実績を上げていた。瀬戸内の岡山、児島地区や特に井原地区などでもこの藍の生産が盛んになり、後の絣(かすり)や小倉織として近代へ継承される。現在徳島地域での「藍」は観光スポット程度でしかないが、岡山、広島地区では、備後かすり、インディゴ染めやデニム産業へと変遷しながら、伝統技術が継承されているといえる。
戦後日本は綿花の輸入もままならず、織物の生産数量も戦前のピークの1/100にまで落ち込んでいた。当然織物工場や既製服の縫製ラインも壊滅的状態から脱しておらず、人々はタンスの中から取り出した古着を活用したり、流通市場に提供するのが敗戦日本の衣服生活の実態だった。1950年頃の東京にま約7000件以上もの中古衣料の小売店が存在し、中でも上野から御徒町にかけてのアメヤ横丁には中古衣料、特に若者の当時のファッション感覚をくすぐる品物も多く、一種のメッカのような場所となっていた。占領軍のアメリカ兵たちが着ているチノパンツやデニムジーンズ。彼らの憧れの的であるこれらの商品が豊富に揃っているという評判によってアメ横はますます発展する。輸入されたジーンズは、アメ横のような店舗のほかトラックに積んで巡回するキャラバンセールでも徐々に地方へも浸透していった。
こうして中古衣料としてのジーンズ流通が隆盛になりつつあったが、やはり新品ジーンズを買いたいという欲求が出てくる。そうして輸入した新品ジーンズは「未洗い」のゴワゴワしたものだった。それまでの中古ジーンズは洗浄されており、結果的に日本人の肌合いにも十分になじめるものであった。しかし新品となると、織物の糊剤の硬さのせいでどうにも穿き心地は良くなく、売れ行きは芳しくない。結局売る側が事前に洗わざるを得ないのだ。現在日本のお家芸ともいえる「洗い」や「サンドブラスト」「中古加工」などの源流はここにある。

高度成長を迎え、生活にもゆとりが出てきた若者たちのジーンズへの憧れは高揚していた。自分たちもジェームズ・ディーンのようにカッコイイ穿きこなしを実現したいとばかりにジーンズを売る店に殺到し始めていた。その頃やっと日本でもデニムの縫製に取り組み始める機運が盛り上がってきていた。そして「工程数」などという概念が薄かった時代に、一つ一つのミシン作業を秒単位で計測し、いかに効率良くコストの安いジーンズを作るかに情熱を傾けた。製造に必要な「巻き縫い」などの特殊ミシンなどの生産設備や資材がどっと流入し始めた。しかし1970年代にはこれらの機器、デニム素材や副資材はしだいに国産のものに置き換わっていく。ジーンズ周辺の日本企業の貢献も大きく、今でも国内外のジーンズ産業の基盤となっている。
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